お酒のおともに
お酒でも飲みながら見ていただければ幸いです。
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先日NHKで放送していた瀬戸内国際芸術祭を特集している番組を見ました。
瀬戸内の島々で展開されているアートフェスティバルの様子が紹介されていました。
豊島では、藤浩志さんの「こんにちは藤島八十郎」という作品がありました。
藤島八十郎とは実在の人物ではありません。
架空の人間の暮らしの道具を並べた住まいを作って、それを鑑賞するアート作品です。
架空のキーパーソンを作って地域を活性化するという行為自体がアート作品なのかもしれません。
直島では、大竹伸朗さんの「I♥湯」が紹介されました。
民家が立ち並ぶ一角に銭湯があり、その外観や内装が派手にデコレーションされています。
デコレーションに使われているのは、島の住民の父親の形見の舵だったり、昔漁業に使っていたオモリだったり。
銭湯という住民のコミュニケーションの場でもあり、かつ島の記憶装置と言っていいのかもしれません。
ここで、先日NHKで放送していた、ダウンタウンの松っちゃんのコント「MHK」を思い出しました。
通販で買った怪しげな機械を松っちゃんが組み立てる「ダイナミックアドベンチャーポータブル」。
親切なようで長々と説明する解説DVDが付いていて、それに従って組み立てるものの、DVDにあれこれ振り回される
松っちゃん。
インターネットやラジオ、TVなどで多くの人が通販を利用するなか、その風刺のような気もします。
長年使ってボロボロになったUFOを匠がリフォームするどこかの番組のパクリのような「ビUFOォーアフター」。
最新技術が詰まっているはずのUFOが、トイレと台所が隣り合わせになっているなど生活感たっぷりに描かれていて、そのミスマッチが狙い通り面白く描かれていました。
幽霊が近所の人を驚かすのを遠くからテンションの低い夫婦が見ている「幽霊を見た」。
メタお笑いとでも言うのでしょうか。他人が幽霊で驚いているのを、見ている夫婦をテレビで見るというなんか変な感じです。
卒業式の答辞の中で、「逆に」という接続詞をやたら連発する生徒を演じる「逆に」。
他人からは滑稽に見えるけれど、我々がしゃべるとき、自分には気づいていない癖があったりします。それを風刺されているようにも見えます。
私もこれを見た後、自分でも少し気にしながら他の人の話を聴いたりしましたが、意外に多くの人が「逆に」という接続詞を使っていたり、自分も知らないうちに使っていたりして驚きました。
これらのメイキングも翌日のNHKのプロフェッショナルで放送されたのですが、松っちゃんのコントは誰もがやったことがない所でチャレンジしていて、難解だとも言われているとのこと。
放送作家たちと談笑しながら、企画し、自ら演じている姿。
「真摯なお笑い」とでも言うのでしょうか、すごく真剣に笑いに向き合っている姿を見ることができました。
また、事前にしっかり作りこんでおきながら、本番でアドリブを加えたりする軽やかさもあります。
2つの番組で感じたのは、過疎のコミュニティの中にある芸術作品と、お笑いの最先端の地平を切り開こうとするエッジの効いたコント。
1つは芸術作品というカテゴリーで捉えているから芸術になっていますが、過疎の町における地域活性化の社会実験と言えなくもありません。
もう1つもコントという目線で見ているからお笑いとして捉えていますが、エンターテインメントの実験と言えなくもありません。
芸術なのか、お笑いなのか、社会実験なのか。
どこに境界線があるのだろうか、そう感じた訳です。
芸術やお笑いには、社会実験という言葉が持つ深刻さ、しかつめらしさからは離れて、シリアスな局面をも面白がったり、笑い飛ばす軽みや力があります。
私たちの暮らす社会の中には、様々な課題があって、小難しく話しあったりもしますが、時には深刻さから解き放たれて、自らを笑い飛ばすような軽みを持ってみるのも良いのかもしれません。
瀬戸内の島々で展開されているアートフェスティバルの様子が紹介されていました。
豊島では、藤浩志さんの「こんにちは藤島八十郎」という作品がありました。
藤島八十郎とは実在の人物ではありません。
架空の人間の暮らしの道具を並べた住まいを作って、それを鑑賞するアート作品です。
架空のキーパーソンを作って地域を活性化するという行為自体がアート作品なのかもしれません。
直島では、大竹伸朗さんの「I♥湯」が紹介されました。
民家が立ち並ぶ一角に銭湯があり、その外観や内装が派手にデコレーションされています。
デコレーションに使われているのは、島の住民の父親の形見の舵だったり、昔漁業に使っていたオモリだったり。
銭湯という住民のコミュニケーションの場でもあり、かつ島の記憶装置と言っていいのかもしれません。
ここで、先日NHKで放送していた、ダウンタウンの松っちゃんのコント「MHK」を思い出しました。
通販で買った怪しげな機械を松っちゃんが組み立てる「ダイナミックアドベンチャーポータブル」。
親切なようで長々と説明する解説DVDが付いていて、それに従って組み立てるものの、DVDにあれこれ振り回される
松っちゃん。
インターネットやラジオ、TVなどで多くの人が通販を利用するなか、その風刺のような気もします。
長年使ってボロボロになったUFOを匠がリフォームするどこかの番組のパクリのような「ビUFOォーアフター」。
最新技術が詰まっているはずのUFOが、トイレと台所が隣り合わせになっているなど生活感たっぷりに描かれていて、そのミスマッチが狙い通り面白く描かれていました。
幽霊が近所の人を驚かすのを遠くからテンションの低い夫婦が見ている「幽霊を見た」。
メタお笑いとでも言うのでしょうか。他人が幽霊で驚いているのを、見ている夫婦をテレビで見るというなんか変な感じです。
卒業式の答辞の中で、「逆に」という接続詞をやたら連発する生徒を演じる「逆に」。
他人からは滑稽に見えるけれど、我々がしゃべるとき、自分には気づいていない癖があったりします。それを風刺されているようにも見えます。
私もこれを見た後、自分でも少し気にしながら他の人の話を聴いたりしましたが、意外に多くの人が「逆に」という接続詞を使っていたり、自分も知らないうちに使っていたりして驚きました。
これらのメイキングも翌日のNHKのプロフェッショナルで放送されたのですが、松っちゃんのコントは誰もがやったことがない所でチャレンジしていて、難解だとも言われているとのこと。
放送作家たちと談笑しながら、企画し、自ら演じている姿。
「真摯なお笑い」とでも言うのでしょうか、すごく真剣に笑いに向き合っている姿を見ることができました。
また、事前にしっかり作りこんでおきながら、本番でアドリブを加えたりする軽やかさもあります。
2つの番組で感じたのは、過疎のコミュニティの中にある芸術作品と、お笑いの最先端の地平を切り開こうとするエッジの効いたコント。
1つは芸術作品というカテゴリーで捉えているから芸術になっていますが、過疎の町における地域活性化の社会実験と言えなくもありません。
もう1つもコントという目線で見ているからお笑いとして捉えていますが、エンターテインメントの実験と言えなくもありません。
芸術なのか、お笑いなのか、社会実験なのか。
どこに境界線があるのだろうか、そう感じた訳です。
芸術やお笑いには、社会実験という言葉が持つ深刻さ、しかつめらしさからは離れて、シリアスな局面をも面白がったり、笑い飛ばす軽みや力があります。
私たちの暮らす社会の中には、様々な課題があって、小難しく話しあったりもしますが、時には深刻さから解き放たれて、自らを笑い飛ばすような軽みを持ってみるのも良いのかもしれません。
- 2010-10-23
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